賎機焼の技
三方原の戦いで敗れた徳川家康は浜松城に立てこもり、武田軍に囲まれてしまいます。その窮地を救ったのが節分の大太鼓と「鬼は外、福は内」の声。これを転機に天下統一への道を進んだとも言われています。
これにちなんで家臣の太田七郎右衛門が、内に福面を描き、外は鬼瓦を模した三つ組の盃を献上。喜んだ家康から「賎機焼」の称号を与えられたとされています。
この三つ組の盃こそ、賎機焼の代名詞とされる「鬼福」。
その後一時途絶えた賤機焼は、明治に入り、太田萬治郎氏の手で再興。さらに明治中期に静岡県は郷土産業の一つとして青島庄助氏にその賎機焼の再興を依頼し、現在まで代々大切に受け継がれながら少しずつ創意が凝らされ、生活の中の工芸として愛されるようになりました。
今もなお新しい賎機焼と鬼福の形を作り続けている五代目の秋果陶房・青島秋果氏にお話を聞くことができました。
脚の長い高杯として
受け継がれていた鬼福
そもそも家康への献上品として作られた鬼福は、脚の長い高杯でした。
邪気を払い福を呼ぶと言われ、縁起物やお守りとして飾られているものだったと思います。
そうして大切に伝わった鬼福ですが、これだと生活の中の器として使えない。
脚の付いていないものを作ってみたらどうだろうか。
これが今制作している鬼福の原点です。
鬼福が暮らしに
受け入れられる喜び
脚の付いていない鬼福は、個性のある暮らしの器として徐々にお客様に受け入れられていきました。それではお湯呑はどうだろう、マグカップはどうだろう。お客様からご要望を受けることも出てきました。
ある時に数十年前に買ってくださったであろうお客様が、ほんの少しだけ欠けたマグカップを持っていらしてくれました。
「直してほしい」
再現することは難しいので金継ぎを施しましたが、何十年と大切に使われた器を見ることができたことは大きな喜びでした。
同じものが一つとない個性が
喜びに繋がっています。
鬼福の「福」の顔は、絵の具ではなく釉薬で描いています。焼き上がりの顔はにじんでいたり、色が変わっていたり。一つ一つが個性を持ちます。
そばかすのように斑点ができたとしても、それがいいと選んでくださるお客様もいます。
全ての鬼福をじっと見つめながら長い時間をかけて選ばれるお客様も。
焼き物でも、こういうものはなかなかないんじゃないかと思います。
同じ表情のない器、一期一会の鬼福をぜひ楽しんでください。